ACT50:目隠しの下、思い出の世界
―夢であって欲しい、と何度思っただろうか。
あの後……
はジョーカーと共に殺陣ドーム跡地から逃げ出した。
火影の勝利に沸く観衆から目を憚るように、
同じ麗の中でも仲のよい亜希や魅希にさえ知らせることなく。
木々の生い茂る森を抜け、森の追っ手から逃れることだけを考え逃げた。
とジョーカー、特に紅麗へ忠誠を誓う十神衆の二人が見つかれば、
真っ先に森に仇なす者として抹殺されることは目に見えていたから。
最近入隊したジョーカーを大目に見てくれることはあっても、
紅麗の腹心中の腹心である雷覇の妹であるは見逃してはくれないだろう。
元より、未だ生死不明の紅麗に恐れを抱く森が、
寝返りを誘い手元に置くという我が身を危険に晒すような選択肢を残しておくはずがない。
恐らく、見つけ次第抹殺の対象として、すでにリスト入りしていることだろう。
しかし、二人とて十神衆に名を連ねる者だ。
紅麗の名に懸けて、こらの下っ端にやられることはないが、
現状紅麗や雷覇を欠いている今はどう見ても、こちらの分が悪かった。
多勢に無勢は骨が折れる上、消耗戦に持ち込まれては厄介この上ない。
二人の魔導具は多勢との乱戦向きではあるが、体力的なことを考慮するとやはり、
どうしても不安が残る。
―そして何より今は、紅麗が行方不明であるという精神的な不安要素を抱えた状態。
長期における戦闘は、精神状態に左右されやすい。
特には、主君たる紅麗はもちろん、昔から親しくしている音遠や兄の雷覇までもが
行方不明のままだ。
大きすぎる不安を抱えたままのは、とてもじゃないが戦える状態ではなかった。
裏武闘殺陣での僅かな付き合いしかなかったジョーカーであったが、
それでもの危うさを感じ取っていたのだろう。
森の包囲網から辛くも逃走した後、は一度も自分のマンションへ帰ることはなかった。
今の所足はついていないだろうが、隣りに住んでいる水鏡のことを考えると
いつ居場所が発覚してもおかしくはなかったからだ。
そのため不用意に帰ることができず、ジョーカーの手によって半ば強制的に匿われていた。
そんな彼がを助けたのも、個人的に色々と思う所があったからなのかもしれない。
匿われていたそこは、物心つく前からよく知る幼馴染の家だった。
たちと同じく火影の末裔の村で育った雷覇と同じ年頃の人で、
村が滅びた日は丁度遠出しており、襲撃の難を逃れた者の一人だった。
村が滅びた後はたちと共に麗に入隊し、
女性だてらに十神衆にも名を連ねていたことがある実力者だ。
惜しむべき点があるとすれば、それはすべて過去形で語られるものだということ。
何を思ったのか、彼女はある日を境に麗から綺麗さっぱり足を洗い、
今はのんびり中学校の教員をしている。
―その生活に不満はないらしい。
むしろ十神衆のときよりも充実していると本人は愉快そうに語る。
―殺伐としたあの世界に嫌気がさしていたのかもしれない。
平凡な学生に憧れたには、彼女の行動が何となくそう映って見えた。
完全に裏家業をやめて表の世界にもどったわけではないらしいが、
大いに楽しんではいるようだった。
―しかし、だ。
そんな少々変わり者の彼女と十神衆でも謎の多いジョーカー。
二人がどういった知り合いなのか、には不思議でならなかった。
知らない人の所に連れて行かれる可能性があったことを考えると、かなり好待遇だ。
きっと、の精神状態をかなり配慮した上で彼女の元に連れて来てくれたのだろう。
気づけばそんな彼をここ数日は見ておらず、目には見えずとも相当気を遣われていたのだった。
―毎朝、カーテンの隙間から陽が差し込むと、鬱々とした気分で目が覚めた。
喪失感から押し寄せる気怠さ。
フラッシュバックする昔の村が滅びた日の記憶と、二人が海へ落ちて行くあの日の記憶。
鳴らない着信音を切望して待ち続け、結局焦れて何度もかけてみるのだが、繋がらない携帯電話。
とても怖くて悲しい反面、底知れぬ怒りがこみ上げてくる。
そんな感情に振り回されて、は時々子供のように癇癪を起こしていた。
―こんなところで、逃げ隠れしていていいのか。
そう自分に問いかける声が聞こえる。
―しかし……自分一人で、何ができる?
嘲笑うかのように、同じく己の無力を問いかける声が聞こえた。
―私は一体、何の為に紅麗様の忍になったのだろう?
今は亡き紅様のため、居場所を与えてくれた紅麗様のため、この身に流れる火影の血のため……?
―違う、違う、違う……っ!!
爪が食い込み血が滲むほど拳を強く握り締めた。
これ以上、壊したくなかったのだ。
あの穏やかな時間を、大切な人たちとの関係を、温かな思い出の数々を。
すべては自分のために。
友達を捨ててまで、しがみついていたかった。
―なんと浅はかで、自分勝手なのだろう。
思い出はとても優しくて甘美なものだった。
過去に戻りたいと思う自分が、どこかに居たのだ。
―紅様が居なくなってしまったけれど、紅麗様が居れば、兄さんが居れば、音遠が、磁生が……
誰かに縋って、事実を認められない自分を見て見ぬふり。
ただ盲目的にしがみついていた。
―けれど、それももう半数以上が欠けてしまった。
……修復不可能なまでに失ってしまっていた。
そしてそこまで来て、やっと気づいたのだ。
もう、あの時間はどう足掻いても永遠に帰っては来ないのだと。
認めざるをえなかった。
―わたしは……ひとりに、なってしまったの?
あの幸せな時間が戻ってこないことへの絶望か、一人取り残されてしまったことへの絶望か、
涙が一筋頬を伝う。
―あぁ、泣いてもどうしようもないのに。
それでも悲しもうとする自分が心の底から嫌になる。
自業自得なのにそれを理解しようとせず、自分で自分を哀れんでいる。
―なんて滑稽な姿か。
気づけば布団に入り眠りにつく時。
このまま一生夢から覚めなければいいと、そう思ってしまう自分がいた。
夢の世界にまで逃げ出そうとする愚かさに、もう嘲笑すら出て来なかった。
紅麗の、音遠の、雷覇の……3人の生死を確認する前に、もうどこかで諦めかけている。
―けれど、それだけは許せなかった。
のなけなしのプライドがそれを許さなかった。
そこを妥協した瞬間、は自分を殺すだろう。
生きていくことを放棄し、自分で自分にトドメをさす。
「私は…………」
鈍く光る鋭利な凶器が、その右手に握られた。
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