ACT32:泣かない。






 「――戒!!」



氷魔閻で自身を刺した戒の元へ、水鏡が駆け寄ろうとした。

しかしその行く手をを遮るように、突然、人影が立ちはだかった。



「―邪魔は、させません……」



戒と水鏡の間に現れた『人影』

その正体は、水鏡が動いたと同時にリングへと降り立っただった。

が二人の間に割り込み、水鏡を止めたのだ。



……!?」



思いもよらぬ人物の介入に、水鏡は目を見開いた。

しかし、はそんな彼の顔を見る事はなかった。いや、出来なかった。



「試合の決着は着きました。火影の陣営へ戻って下さい。」

「―っ退いてくれ!!」



身体は依然としてフラフラとしており、まだ力が入らないながらも、

その手はの肩を力強く掴んだ。



「出来ません……」



もまた、自分よりも高い位置にある水鏡の肩を掴み、押し返した。

ただそれは、全身ボロボロな彼の身体を気遣うようにそっと、労るような、

やんわりとした動作だった。



「―どのみち私は助からん。」



そんなの行動を肯定するように、戒はまた口を開いた。



「しかし生に未練はない!おまえに勝てたのだからな!!」



痛みで気を失ってもおかしくない状態にも関わらず、満足そうに笑った。



「この氷魔閻は、私が一緒に連れてゆく…

 おまえを倒すために、この血塗られた魔導具を使った私の、これが最後のけじめだ!!

 
 …復讐という負の力だけで戦うな…

 怨念だけで剣を握る者は……いずれ、己も血にまみれ、崩れゆく!


 おまえはまだ若い…まわりには、多くの仲間もいるだろう。

 死を恐れろ!死に急ぐ必要などないのだ!」



その目は、先ほどまで戦っていたとは思えないほど優しい色をしていた。

ただそれは水鏡だけでなく、戒に背を向けたままのにも投げ掛けられているのだった。



「これが…死力を尽くして戦ってくれたおまえへ、贈る言葉だ……

 想いが遂げられた時、死しか残らなかった…私のようにはなるなよ!!

 こちら側の人間になるな……がほっ!」



また苦しそうに血を吐きながらも、その視線はゆっくりと頭上に居る紅麗へと向けられた。



「紅麗様…お別れの時が来たようです。御武運を……!!」

「……さらばだ。」



簡潔な別れの挨拶。私怨で麗に身を置いていたとはいえ、

戒も間違いなく紅麗を慕っていた者の一人だった。

紅麗の言葉を聞くと、戒はもう一度こちらを振り返った。



……」

「……戒、さん」



はゆっくりとそちらへ首を振り向かせた。



「お別れ……なんですね?」

「あぁ、今まで世話になったな。」

「それは……私の方です。」



は名残惜しむように一つ一つ、丁寧に言葉を紡いでいった。



「いや、お前のおかげで俺は……少しだけ、救われた。感謝する……」



ゆるゆると、はただ首を横に振った。

それ以上は、もう、何も言えなかった。



「最後に教えよう。水鏡、おまえの姉を殺した男の正体は


 ……我らの師、巡狂座!!」


「っ戒さ……!」



間を置かず、戒は底の見えない深淵へと身を投げた。

の身体が咄嗟にそちらへと動いたように、重傷であるはずの水鏡も迷わずそこへ駆け寄った。



「戒ィィィーーっ!!」



墜ちて行く最中、戒の口は尚も動いていた。



―『しあわせになれ……』



それをしっかりと読み取ったは、ガクリと膝から崩れた。



「っ………!」



―泣くことはできなかった。

いや、泣いてはいけないと思った。



ギリリ、と歯を食いしばり懸命に耐える。

彼の死は彼自身が望んだことで、それを惜しむようなことをしてはいけないと思ったのだ。

……それでも、押さえることができなかったの口から、わずかに嗚咽が漏れた。

―最後にこうするかもしれないことを、何となく予想はしていた。していたのに……



一筋、涙が頬を伝った。

彼の顔は憑物がとれたかのようにすっきりとしていた。

彼自身が納得し、満足した上での死だったのはちゃんと伝わってきた。

―ただ、それを受け止められるほど私が、が強くなかっただけのこと。



彼は中途半端で煮え切らなかったに、厳しくも真っ直ぐに助言をしてくれた人だった。

いつも心から優しい言葉を投げ掛けてくれた人だった。

―とても感謝している。感謝しても仕切れないほどに……。

だからこそ、一番に彼の意志を尊重したかった。

それも所詮はエゴで、どうすこともできなかった私の免罪符でしかないのだ。



―それでもやはり、生きていて欲しかった。

それが私の我儘だとわかってはいても……、あんな言葉を残すくらいなら、

その目で、その時まで、見届けて欲しかった。



―戒さん……ありがとう。

グッとさらに零れそうになる涙を拭った。



―凍季也……



底の見えない穴を見つめる水鏡を、は一瞬だけ見た。

戒が伝えた言葉を、水鏡がしっかりと受け止めてくれていることを信じて……



―その想いは、決して忘れはしないから。












戒が落ちていく姿が、水鏡にはとてもゆっくりに感じられた。

その最中も、彼が伝えようとしていた言葉は痛いほど伝わってきた。

隣りに居たにも、それはしっかりと伝わっているようだった。

そして、そんな彼女の目からわずかに零れた涙を水鏡は見逃さなかった。



―戒……君も一人ではなかったみたいだな。

その死を惜しんでくれる者がいたのだから。

水鏡はギュッと拳を握り締めた。



―何故、自分に己の二の舞いにはなるなと言ったのだろうか。

―戒、教えてくれ…僕はどうしたらいい……?

わからないことばかりで、頭は混乱していた。

戒の残した言葉がただグルグルと回っている。



―裏切り、嘘、喪失。色々なことが幾重にも重なり、いくら考えてもどうしたらよいのか

……その答えは出てこない。

同時に、自分だけが取り残されてしまったような孤独感があった。



ふと、先ほどまで彼女が触れていた肩だけが、何故かほんのり温かかい気がした。

それは疲れた身体に染み込んでいくように、優しかった。



―巡狂座……



水鏡はそっと瞼を閉じた。



―わからないことが、知りたいことが増えた。

しかしに関しては、一つだけわかったことがあった。

あの土門戦での数々の言動は、間違いなく火影へ向けられたモノだったということ。

言葉の大半は、火影のためにワザと煽った節があった。



それに……柳へ向けられた最後の言葉は、間違いなく彼女の本音。

そのことに気付いたとき、水鏡の心は大きく揺らいだ。

だが敢えてその動揺を隠すように上から蓋をした。



―それがこの二回戦が始まったときの自分。

彼女は敵だと頑に割り切ろうとしていた。



―しかしそれでも割り切れない自分がいた。

それはきっと……彼女自身にその真実が隠されているから。

今ならそう、はっきりと言える。



―そう、急くことはない。

目を耳を思考を、感覚のすべてを研ぎ澄まして、答えを見つけ出せ。

決意したように、水鏡は閻水を握り直して立ち上がった。

再度、へ視線を向けるが、あえて何も言わずに背を向けた。

―今はまだ聞く必要はない、と自分に言い聞かせて……。



ゆっくりと火影陣営へと戻っていく水鏡の背中を、も一度だけ振り返った。

傷だらけの身体に、一瞬だけ心配そうな顔をしたが、真っ直ぐに自陣へと戻った。














「ホホ…勝てれば命すらいらぬとは……とんだ自己満足ね。」



それは擦れ違いざまの一言だった。

命の、戒に対する侮辱とも言える言葉。

は今にも殺してしまいそうなほどの殺気を一瞬にして纏うと、勢いよく命を振り返った。



「命…」



しかしそれよりも早く、紅麗が命を冷たい目で見据えていた。



「戒への侮辱は許さん。殺されたいか?」

「も…申しわけ…」



信念のもとに逝った戒。紅麗もまた、そんな彼を侮辱をすることを許さなかった。

もまた紅麗の視線を受け、静かに殺気を収めた。















一方、決着の余韻が漂う中、火影側が慌ただしく動きを見せはじめた。

何やら一騒動あったようだが、仲間たちの檄を受けた烈火はリングから背を向け、

反対側にある通路へと走り出した。

決勝戦の最中だというのに、何ごとだろうか?

一見、奇行にしか見えないが……



「……どうやら話は終わったみたいですね?」



おとなしく様子をうかがっていると、一段落ついたところを見計らって命が口を開いた。



「騒がしい、と思えば烈火が居なくなるとは…ねぇ?

 ホホ…火影の大将は腰抜け?敵前逃亡とは、情けないですわねェ。」



命が馬鹿にしたように笑った。



「ト・イ・レだよっ、ブース!!」

「…………」



そんな命に対し、風子が中指を突き立てた。

気は短いが仲間思いの風子らしい態度だ。

隣りで雷覇が少々騒がしいが、音遠が突っ込んでくれているためそこはあえて関与しないでおく。



それよりも……



―あの老人、どこかで……?



先ほども少々話したが、それよりも前に会ったことがあるような……。

ふと、の脳裏に何かが過ぎった気がした。



「なに……?」



それはぼんやりとしていて、よくわからない。

―気のせいだろう。

と深く考えることなく、は小さく息を吐いた。



「治癒の少女……今しばらく、その時間を楽しむ猶予をお前たちに与えよう。

 戦いに敗れ、治癒の少女・佐古下柳が我々の物となる、その時までな……!!」



烈火不在の陣営を感慨深そうに見据え、紅麗は仮面の下で笑った。



「忘れるな。彼女が、賭の対象である事を…そして勝つのは我々、麗だということを!!」



「火影は負けません!!!」



紅麗を真っ直ぐに見据え、言い返したのは柳自身だった。

烈火の不在と、現状、二敗という事実。

もう後はない。



次に負ければ柳は……



にはもう、わからなかった。



この後の行く末は、すでに自分の手の届かないところにあるのだから。












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