ACT29:飛ぶ鳥の背中
悲痛な表情を浮かべるの元へ、慌ただしくも雷覇と音遠が駆け付けた。
観客席からは直接こちら側へ来る事はできない。
そのため、関係者入口の方から迂回してきたのだろう。
二人が到着するまでに少々時間がかかった。
「……ここは選手以外立ち入り禁止、でしょう?」
「……アンタねぇ」
珍しいの憎まれ口に、音遠が呆れたように溜め息をついた。
「気持ちはわかるけど、応急処置くらいしなさいよ。」
音遠が指摘した通り、放置されたままになっているの怪我。
自分の魔導具によってボロボロになった左手と、何本か骨が逝ってるだろう脇腹は、
先ほどからズキズキと痛む。
腕の感覚が僅かに戻ってきたことで、動かせるということがわかった分にはいい。
脇腹の方も痛いことには痛いが、骨が折れて臓器に刺さったりまではしていないだろう。
は『この程度ならば我慢ができる』と自己判断を下しこの場に残ったのだが、
やはり応急処置もしないまま放置はマズかったらしい。
二人の不興を買ってしまったようだ。
そして、急いで駆け付けた二人の心配を余所に、
そこから一歩も動こうとしなかったのも悪かった。
頭ではわかっていても、試合が気になるのだから仕方がない、
というのがの言い分である。
体の向きこそ二人に向けているが、視線をリングから離すことはなかった。
そんなに対し、雷覇は困ったように笑みを浮かべながらそっと近付いた。
「妬けますね……」
が試合に集中していることをいいことに、その左手をヒョイと持ち上げた。
「イッ!?…痛っ……!!」
ようやく顔ごとこちらに振り向いたを、雷覇はそのまま後方へと引っ張っていく。
「っ…兄さん!?ちょっ…痛い!私はまだ医務室には行かな……!!」
「――」
雷覇の真剣な目がを射抜いた。
「ここに居たからといって、何も変わらないでしょう?」
「……っ!」
「その怪我を治す方が先です。」
有無を言わせない一言。それはの心に突き刺さった。
―そんなこと、わかっている。
耐えるようにグッと唇を噛み締めた。
「……嫌、よ」
「……」
―心配をさせたくはない。けれど、これだけは譲れなかった。
「治療を、しないとは言ってない。ただもう少し、試合が終わるまで待って……!」
我儘だけれど、その気持ちを抑えることがにはできなかった。
「………」
「……」
―が雷覇に反発した。
それは雷覇に思いの他衝撃を与えた。
咄嗟に、掴んでいたその手をから離してしまうほどに。
周囲に言わせれば、それは日常茶飯事のことで取るに足らないやり取りだといえよう。
しかしそのの一言がいつもと違うことを、直感で雷覇は理解していた。
―その思い詰めたような表情は、一体誰のために?
雷覇の瞳が寂しげに揺れる。
実を言うと、今まで『本気』の雷覇に逆らうことをは一度もしたことがなかった。
麗の中でも、昼行灯などと呼ばれる彼の『本気』を見分けられる者はそう多くない。
しかし幼い頃から一緒にいるはそれを無意識に感じ取り、
できる限り雷覇を心配させまいと行動していた。
それがの、たった一人の家族に対する当たり前の行動だったから。
けれど今回、誰の目から見ても明らかに雷覇の目は『本気』だったにも関わらず、
はそれに従わなかった。
―いつの間に……
自分の知らない顔をするを前に、雷覇はそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。
「―……諦めな、雷覇」
音遠が静かな声色でその場を制した。
「自分のことは自分が一番よくわかる。そうだろう?」
「それは、そうですが…」
「雷覇、あんたは頑固だ。けど、も負けず劣らず頑固なんだよ。
兄妹揃ってまったく……」
「…………」
返す言葉もなく、は少々気まずそうに視線をそらした。
「にはの、譲れない事情があるのさ。わかってやりなよ」
音遠がの肩を持つ。
一方『応援はできない』そう言ったはずの彼女の意外な一言に、は目を見開いた。
そしてそんなの反応を、雷覇は見逃さなかった。
―自分が知らない『何か』を音遠はきっと知っているのだろう。
いくら兄妹といっても越えられない壁。それがそこにはあった。
―わかっていた。そう、わかってはいたのだ。
「……どうしても、医務室へは行ってくれないんですか?」
訴えかけるような目が真っ直ぐにを捕らえていた。
「…うん、私は逃げるわけにはいかないから」
「そう、ですか……」
雷覇は寂しそうに微笑んだ。
―娘を嫁に出すような心境、とはこのような気持ちのことを言うのだろうか、と。
「本当にったら、心配させるような試合するんじゃないわよ!」
「音遠には言われたくないよ…」
「…と、ともかく!無理やり医務室に連れて行くようなことはしないから、
応急処置だけでもさせなさい!それ以上は譲らないわよ?」
「……わかった」
来る途中、ついでに寄って借りてきたらしい。その手には医療道具が握られていた。
雷覇に再度握られたの左手は、治療する前だというに、
その痛みが和らいでいくような気がした。
「……聞きたいことがある――そう言ったな、水鏡凍季也。」
唐突に名を呼ばれた水鏡は、威嚇するように戒を睨み付けた。
「ククク……それはもしや…殺された姉の事かな?」
しかし戒は、それさえも愉快だと言わんばかりに口の両端を吊り上げる。
―明らかな挑発行為だ。
事情を知らない者にはわからないだろう言葉の数々が、周囲を、観客を混乱させていた。
『水鏡の姉』
『殺された』
『戒が知っている』
そこから導き出される答えは……
「図星!!!みたいだなァ!!!」
異様なまでに興奮している戒が水鏡に襲いかかった。
「ハハッ!知ってるっ、知っているぞォオ!!教えてやる……!!教えてやろう!!
ただし!!ここから先は、私を倒してからにしようか!」
「――しかし…水鏡はそう簡単に倒せまい。奴には強力な秘術がある。」
音遠がリングを見据えながら、思い出すように言った。
「秘術?強いんですか?なんかあの人動き悪いように見えますけど。」
「兄さん…?」
珍しい雷覇のどこか刺のある物言いに、は眉を寄せた。
「あんたも私の試合、見てただろう?……ったく、これだからシスコンは。」
はよくわかっていなかったが、音遠にはその態度の理由がすぐにわかった。
―嫉妬
どうやら雷覇にバレたしまったらしい。
まぁこれだけわかりやすければ、いつかはバレるとは思っていたが……。
―こりゃあ先が思いやられるな、と音遠はこっそり溜息をついた。
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