―好きだよ
―この世界で二番目に大好きだよ
―生まれてきてくれてありがとう
―君がいなければきっと
―私は生きてはいけないから
流れたのは涙
「…っはぁ…っ…」
洗面台で崩れるようには座り込んでいた。
「…どっ…して……」
爪が食い込むほど強く、その手を握り締める。
―好きだったから……
同じところに立って、少しでも近くにいたかった。
だから滅多にしない努力をして、やっと同じところに立った。
―そこでわかったのは、彼の優しさ以上にその志しの強さ。
そんな彼に更に強く惹かれて…
そしてやっと……幸せになれたはずだった。
―けれど、それは一方で自分を最悪の状況に追い込んだいたとは……
その時の自分には想像もつかなかった。
―『妊娠』
女として、好きな相手の子を身籠もれたことを嬉しく思う反面、
それは今の地位には居られなくなることを指していた。
もしこれが席官ならば、それほどまで悩むこともなかっただろう。
ただ、の今居る地位はそう長い間空けていてよい所ではない。
……もし退職となれば、彼の足手纏い。
最悪お荷物にしかならない。
正直、身体が病弱にも関わらず、一族を一人で支える彼に
これ以上負担をかけさせるわけにはいかないのだ。
そのせいで彼を失うことにでもなれば、私は私を一生許せない。
―堕胎しようか……?
そう考えた瞬間、冷水を浴びたかのように身体が震えた。
―……できない。
絶対に嫌だ。
たとえ望まれた存在でなくとも、彼と私の子に変わりはないのだ。
……殺すことなど、できるはずもない。
たとえできたとしても後、何かの拍子に彼がこのことを知れば、
当然のように責任を感じてしまうだろう。
―そう、今にして思えば……
この時は特に盲目的で不安定な時期だった。
当時はお互い隊長同士ということもあって忙しく、会う機会を作るのも一苦労だった。
擦れ違うことが重なったこともあって、寂しかったのかもしれない。
私の想いがどこか一方通行のようなそんな気がして……不安で仕方がなかった。
いつの間にか嫌われることが怖くなって、自分から彼の元へ行くことができなくなってしまった。
―とにかく優しい彼に、迷惑をかけたくなかった。
不安が不安を呼び、妊娠が拍車をかけ、あの人の恋人としても一隊を率いる隊長としても、
道は残っていないと勝手に思い込んでしまった。
だから、選ぶ道はそのどちらでもない決別の道。
私の我儘を許してとは言わない……
恨んでくれても、忘れてくれてもいい。
―さようなら……愛しい人。
『……本当によいのか、よ。』
『はい。隊長にあるまじきこの決断…どうか、お許し下さいませ』
養父・山本元柳斎重圀を前に、は深々と頭を下げた。
『そのことについては……もうよい。
優秀な者を欠くことは誠に惜しいがの……事情が事情じゃ。
儂も一人の親、今まで尽くしてくれた養娘の、最初で最後の頼みを聞かぬわけにはいくまい。
しかし何も、瀞霊廷を去ることはなかろうて……』
『私が、割り切れないのです。彼には、私のことを忘れて幸せになって欲しい…』
穏やかな表情で腹部に手を当てるを、元柳斎は何とも言えない表情で見つめていた。
『……これからどうする気じゃ?』
『はい、霊圧を消して流魂街へと参ります。
霊圧を消す道具は、すでに手配しておりますから…もう、会うことはないかと思います。』
『そうか……』
元柳斎は一度目を閉じると、またゆっくりと開いた。
『……ならばせめて、育児に適した治安のよいところを手配しよう。』
『重圀、様…っありがとうございます……』
『……十番隊隊長・山本。これを持って除隊を許可する。
引継ぎが終わり次第、流魂街に下れ……すまぬ、憂依よ…』
『いえ、死神だった父母を亡くし流魂街で路頭に迷っていた私を……
同じく死神にまでして下さっただけでも、私は幸せだったのです。
ただ、そのご恩さえもお返しできぬまま去ることをお許し下さい。
……尸魂界に異変あらばすぐさま駆け付け、ご助力することをここにお約束致します。』
『さらばじゃ……我が娘よ。』
そして元柳斎に背を向けた憂依が振り返ることはなかった。
―それから数か月の時が流れ……
新たに芽吹いた命の産声が、流魂街にある小さな家に響き渡った。
「……お母さん」
襖の陰からひょっこり顔を出したのは、小さな女の子。
が暮らすことになった流魂街。
そこの家に住む、新しい『家族』だ。
「入ってもいい…?」
の腕の中にいる小さな存在をチラチラと気にしつつ、
どこか不安そうにこちらの様子を伺っていた。
「大丈夫だよ。おいで」
チョイチョイと手招きをすると、少女は見る見る顔を輝かせてこちらへ駆け寄って来た。
「この子とは、はじめましてだよね?」
「わぁ…!ちっちゃい……」
興味深々に腕の中を覗き込む。
「うー…あぅ……」
「桃ちゃん、この子のことよろしくね?」
憂依の腕の中には小さな赤ん坊が抱かれていた。
『桃』と呼ばれた少女は、のすぐ側で顔を綻ばせている。
「名前は 『冬獅郎』
冬に生まれた男の子。強く逞しく育つように……」
「シロちゃん?」
キョトンとした顔でそう口にした桃に、は苦笑した。
「フフッ、そうだね『シロ』……仲良くしてあげてね?」
「うん!」
―『トウシロウ』
その名の意味を知るのは自分だけでいい。
漢字や読みも違うから気付く者などいないだろう。
もし、いたとしても偶然で済むはずだ。
―そう……冬獅郎にはきっと、霊力の素養があるはずだから。
できればなって欲しくはないが、可能性がないわけではない。
―『死神』
どちらに似るのか想像もつかないが、何よりも賢く健やかに育って欲しい。
そう、今、この小さくて弱い存在を守れるのは自分しかいない。
―血の繋がりに固執しているつもりはなかった。
けれどそこに繋がりは確かにあって……。
―冬獅郎が生まれたとき、は泣いてしまった。
そのときの気持ちを何と言ってよいかわからないけれど……
とにかく込み上がってくるソレを抑えることができなくて、
腕の中の存在が自分でも信じられないほど愛しかった。
―ありがとう
―ごめんなさい
―私が、守るから……
私と冬獅郎と、桃とおばあちゃんの四人家族。
子育てなんてしたことがないため、わからないことが多いし、不安だけれど。
不思議と暗い気持ちにはならなかった。
―冬獅郎、0歳
新たな年を迎える少し前の、12月の出来ごとであった。