当てもなく…ただ前に進む毎日。
見知らぬ土地、見知らぬ人、見知らぬ風習…。
アノ頃の私を知るモノは誰一人としていないこの世界。
…そう、ただ一人命に代えても守りたかった人でさえ守りきれず、
死ぬことさえ許されない。
生き抜くことこそが今の私に与えられた最後の使命…
何よりも残酷なことだと、彼はもちろん知っていただろう。
それでも“生きろ”と私に言ったのだ。
―だから死ぬことは許されない。
『私は…生きることに固執する。』
【図南の翼編】
序章:会‐かい‐
柳国某州
とある宿の一室。
20代前半くらいの男女が一組居合わせていた。
女の名を男の名を利広といい、
実を言うとこの二人、夫婦や恋人…というわけではなく、
かといって友人というわけでもない。
まったくの赤の他人同士である。
―そんな二人がなぜ同じ部屋に?
そう思うのももっともなことだ。
…というのも、数時間前に逆上るのだが…
この宿に趨虞を連れた男がやってきた。
そしてこの宿に泊めて欲しいと言うのだ。
主人はもちろんこんな上客めったにお目にかかれない!
と快く了承しようとした。
しかしそこにもう一人趨虞を連れた女が現れた。
そして同じようにこの宿に泊めて欲しいと言う。
……主人は困った。
なぜなら空き部屋はもう一部屋しかないのだ。
が、めったにお目にかかれない上客が二人。
これを逃さない手立てはないものかと思案するものの、
部屋が二つに増えるわけでもない。
…ここはしかたなく、先に来た方のお客を優先させようと主人は口を開いた。
「ご足労いただき、誠に申し訳ないのですが、
空き部屋がもうございません。」
深々と頭を下げてそう言うと、女の客も口を開いた。
「こちらのお客さんで最後でしたか…。」
そして視線を向けた先にはもちろん先程の男がいる。
―一足遅かったか…
と、踵を返そうとしたとき、ふと男に呼び止められた。
「もし、もうじき日が暮れます。
今から宿探しでは空き部屋もほとんどないでしょう?
女性が一人で出歩くには少々危険です。この場は私が引きますよ。」
そう言って彼は趨虞の手綱を持ち直すと、その場を去ろうとした。
すると今度は女の方が男を引き止めた。
「…待って下さい。今から宿は見つからないと申されましたよね?
貴方はどうされるのですか?」
彼女にとっては願ってもない話だが、譲って貰うのはいささか気が引けた。
彼にそう問うと、返事が返ってきた。
「…野宿ですね。…慣れたものですから気になさらないで下さい。」
笑顔で彼はそう答えた。
「…しかし夜は危険でしょう?」
「こいつがいますから。」
そして横にいる趨虞を指すが、彼女は納得いかないようだ。
「…私にもこの子がいます。
ならば私が危険というならあなたも危険でしょう?」
「…私は男ですから。」
「それは差別というものでは?」
その言葉に彼は意表を突かれたような、キョトンとした顔をした。
周りからすれば女が素直に承諾すれば話しは解決なのだろうが、
彼女には彼女なりの志がある。
『女だから』という理由で引くわけにはいかないのだ。
しかしその後も会話は平行線を辿る一方で、決着は尽きそうにもない。
と、見兼ねた主人が口を開いた。
「…なんならお二人で一部屋をお使いになられてはどうでしょう?
丁度、その空き部屋は二人部屋ですからお二人さえ良ければ…。」
普通なら有り得ない話だが、
誰かが仲介しなければ一晩中やってそうな勢いだ。
その提案に女の方は…
「後から来たのは私ですから、異論はありません。
彼さえ良ければ私は構いません。」
あっさりと承諾し、男の方も…
「泊めて貰えるのならそれに越したことはないからね。
彼女がいいといえなら私も問題ないよ。」
…こうして冒頭に至る。
お互い名を名乗り、必要最低限のことを決めると
あとは各自自由にくつろぐ。
…しかし、やはり同じ空間にいる以上、
他人のことは気になるもので、先に利広が口を開いた。
「さんはどこの出身?」
その言葉に数拍置いてが返す。
「…一応『巧』出身です。
…あ、関係ないですけど呼び捨てでお願いします。
不快でなければ、私もそうさせてもらいますから。」
「私は構わないよ。ちなみに私は『奏』出身。」
「へぇ…ちなみに先程の趨虞は?」
「出身かい?それはもちろん黄海だよ。」
「…そういうことじゃなくて…。」
冗談なのか、はたまた天然なのか。
どちらにしてもいい性格しているな…と、
とある知人を思い出しながら、は溜め息をついた。
「ごめんごめん…どうしたのかっ、てことかい?
…まぁ簡単に言ってしまえば貰ったんだよ。そう言うは?」
満面の笑みでそう言う彼には黒いモノを見たという…。
「自分で捕まえました。私は貰えるほど身分高くないので。」
「嫌味かい?」
「それはあなたの方でしょう?」
鋭いの突っ込みが入り利広は苦笑する。
「そんなつもりはなかったんだけどなぁ…」
と、クスクスと笑いながら言葉を続けた。
「で、柳へは何をしに?…物見見物というわけではなさそうだ。」
はそれに言葉を詰まらせた。
しばしの沈黙が二人を包み、が小さく溜め息をついた。
目線を下に向け、それが合図かのように利広が口を開く。
「私の思い過ごしかもしれないけれど…
君の出身が“一応”巧であるというのに、関係あるのかい?」
が視線をあげ、苦笑をもらした。
―本当に誰かさんに似て鋭いな…。
「…私、海客なんです。正確には『胎果』」
「胎果?しかし君は…言葉を話せているじゃないか…。
こちらに来て長いのかい?」
「えぇ、もう数年は経ちましたね…。
丁度、流れ着いたのが巧だったんです。
…私を助けてくれた方がこの世界のことを教えてくれました。
そのあと勧められて雁に行って、一応戸籍だけは得ましたけど…
こちらに来て私がはじまった場所は、巧ですから。
この国に来たのも、この世界を知るための一環ですよ…」
そこで言葉を区切るとはゆっくりと顔をあげた。
しかしその表情はどこか哀愁が漂っていた。
「…あちらへ帰りたいのかい?」
利広がその心情を察し聞く。
「いいえ…ですが、やり残したことがあるんです…。」
「それは『帰りたい』ということではないのかい?」
利広が疑問を投げかけた。
「私には…もう、あちらで一番守りたかった人はいないんです。
…目の前にいたのに、死なせてしまった……。
あちらに私の“帰るべき場所”はないんです。
それは私にとって無に等しい…。」
正面を見つめながら、その目は今は遠いその情景を
思い出しているように見えた。
「…『やり残したこと』というのを聞いてもいいかい?」
少しの間を開けて利広が聞いた。
「…『国を見届けること』です。それが約束でしたから。」
「……そう。では最後の質問にしよう。
何故出会ったばかりの見ず知らずの私にそこまで話してくれたんだい?」
その問いにはキョトンとした表情をし、
何かが弾けたかのように笑い始めた。
「…確かに初対面の人に話すことではないですね…。
あなたが私のよく知る人の性格にソックリだから、かな?
それが理由です。」
利広も予想していなかったのだろう。
そんなに似てるのかい?と、不思議そうにを見ていた。
「えぇ、雰囲気がとても。
いつも笑顔を絶やさない所なんかは瓜二つですね。」
「性格は?」
「会ったばかりですから。それはまだわかりませんよ。
…ただ、人の心を見透かすような…
その瞳が私に話させたのかも知れません。」
半ば口説き文句とも聞こえないその科白に、利広も少々照れた。
「なんだか気恥ずかしいな。
けれど…気に入ったよ、私がどうにかしよう。」
「は?」
「ただし、絶対こちらに帰ってくるという約束でね。」
「利広?」
「そうとなれば話は早い。さっそく奏に戻らないと。
もちろんも一緒に、ね。」
「はぁ…?」
「そういえば海客・胎果なら別に名があるはずだね?
は何ていうんだい?」
その言葉には紙と筆を取り出し自分の名を書いた。
『時枝』と。
「時枝といいます。
一時期男として暮らしていたこともあるので
『』と名乗っていたこともありますが…。」
「、か…では私はそちらを呼ばせてもらうよ。」
―…これが彼・利広こと奏国太子・卓郎君とのなんとも奇妙な出会いである。
そしてこれがこの先何十年もの付き合いになるとは…
想像していたかもしれないし、していなかったかもしれない。
ただこの後…返しても返しきれないほどの恩を売られてしまったのは事実である。
人は時を刻み生きる…。