1:『お兄ちゃんと一人暮し』
「―ダメです。」
―そう言ったのは誰だったか。
否。それは、聞き返さずともすぐにわかることだった。
「ダメったらダメです!に一人暮しなんて危険過ぎます!!」
「危険って、兄さん……」
―兄さん以上に危なっかしい人間になった覚えはないのだけれど。
とは内心突っ込んだ。
そもそも一人暮しを反対する理由としては、まずその年齢の若さが揚げられる。
現在、は中学2年生。
まだ義務教育中の未成年である以上、一人暮しを始めるには早過ぎる。
「お願い兄さん。私、転校したくないの!」
必死に頼み込むに、雷覇は眉尻を下げ、困った表情をした。
「突然、どうしたんです?」
「それは……」
は言い辛そうに口ごもった。
「言えない、理由ですか?」
「……怒らないで聞いてくれる?」
自然と上目遣いになるの瞳は不安気に揺れていた。
やや躊躇はあったが、言う気はあるらしい。
「内容にもよりますが……」
「…………」
「あ、いえっ!だ、大丈夫です!怒りませんよ!!」
しゅん、と一瞬落ち込んだ様子のに、慌てたように取り繕う雷覇。
気を取り直して、ようやくは口を開いた。
「えっと…その、ね?友達が…できたの……」
「……友達、ですか」
一応、想定内の理由だったことに雷覇は少しだけホッとした。
「何て言えばいいのかな……?一緒にいるとね、すごく幸せな気持ちになるの。」
―ピシリと、安堵したのも束の間、雷覇は固まった。
「……、それは……男の子、じゃあないですよね?」
問い質す口調こそ柔らかいものの、その目は真剣そのもので、口許はわずかに引きつっていた。
「……違うけど?私より一コ下の女の子だよ。」
がそう言うと、雷覇はあからさまにホッと胸を撫で下ろした。
「そう、ですか。それは良かった……」
「何が?」
「あ、いえ!に友達が出来たことが、ってことがですよ!?」
「……ありがとう。」
はにかむように笑ったに、心の中で謝罪しつつ、雷覇もニコリと笑い返した。
「……ねぇ、兄さん。ダメ?」
「うーん……」
―できるだけ、のやりたいことをさせてやりたい。
しかし一人暮しをさせるのは、やはり心配だ。
兄としてどうするべきか雷覇は悩んだ。
「兄さん……」
「わかりました。」
「!」
はゴクリと息を飲んだ。
「……いいでしょう。今まで散々私の都合で転校させて来ましたから、
のためにもそろそろ一ヵ所に留どまることは良いのかもしれません。」
「それじゃぁ……!!」
期待を込めて声を上げたの目には、すでに喜色が浮かんだ。
「―ただし。はまだ未成年ですから、やはり一人暮しは心配です。
なので私も一緒に住みますからね?」
「えっ、でも兄さん仕事は……?」
予想外の言葉には目を丸くした。
「えぇ、仕事はもちろんキチンとします。
なのであまり一緒に居ることは出来ませんが、定期的に帰りますよ。
まぁ、私一人では高が知れてるので、音遠にも頼みますが……」
本人に言う前にそれはすでに決定事項らしい。
知らない間にの様子見係に任命された音遠は、
怒るどころかそれを通り越してきっと呆れるに違いない。
そんな彼女のことを思っては苦笑した。
「お願いですから、マンションの手配は私たちに任せて下さいね?
いくつか候補を探しておきますから、その中から最終的にが選ぶような形にします。
ですから、ね?」
自分が無理を言っていることを重々承知していたは、
雷覇の出した条件に関して素直に頷いた。
だって出来るだけ雷覇や周りの人達に心配をかけたくない気持ちは一緒なのだ。
ただ、今回ばかりはどうしても諦めきれなくて、駄目もとで頼んでみたのが功を奏した。
ちなみにその裏には、少しとはいえ妹を疑ってしまった雷覇の、
自責の念と謝罪が含まれていたのだが……本人は知るよしもない。
2:『髪』
「――凍季也の髪って、すごく綺麗だよね。」
突拍子もなく、がそんなことを言い出した。
―夕暮れの教室。
いつもなら、何の部活動にも所属していない二人は、さっさと家に帰ってしまうのだが……。
放課後職員室まで来るよう担任に呼びだされたかと思うと、大量に雑務を押しつけられたのだった。
なまじ成績が良かったのが仇となってしまったらしい。
さっさと終わらせるためにも、カリカリとプリントに書き込んでいく音と、
それを纏めてホチキスでとめる音が、この静かな教室に響いていた。
そして作業もあともう少しで終わるという頃。
突然、があんなことを言い出したのだった。
彼女が熱心に見つめているのは、色素が薄く羨ましいほどサラサラとした綺麗な髪。
その髪を持つ人物は列記とした男であり、それがなんだか悔しい。
……格好によってはその性別が怪しくなってくる容姿の持ち主ではあったが。
男には変わらない。
「何か特別に手入れとかしてるの?」
「……特にはしてないが?」
その返答には小さく溜め息をついた。
ある程度予想していたが、実際に本人の口から聞くと、結構ヘコむ。
「そっか……」
「どうかしたのか?」
「いや、羨ましいなあと思って」
「…………」
水鏡は返答に困った。
『羨ましい』と言われても生まれつきのものだ。
そこまで意識したことなどない。
今だって伸ばしているというよりは放置に近い。
ふと、の髪に目が行った。
彼女の髪も長いが、色は対照的に真っ黒だった。
染色されていないそれはとても艶やかで、触り心地が良さそうに見えた。
―の髪だって綺麗だと思う。いや、むしろ僕の髪なんかよりずっと……
「………」
「凍季也?」
「っ…何でも、ない。」
「………?」
不思議そうな顔をしているを、何となく真っ直ぐに見ることができず、水鏡は目を逸らした。
―今、何を考えていた?
そんな彼の顔が微かに赤く染まっているのは、夕日のせい……らしい。
3:『おかえりなさい』
―人を殺した。
それは一人の忍びとして。
もう、何も知らなかった少年には戻れないことを示していた。
―恐怖
自分が、知らない何かに汚染されていくような、そんな気分。
発狂したくなる精神を抑えるのがやっとだった。
「―おかえりなさいお兄ちゃん!」
そんな、不安定な精神のまま帰宅した雷覇を、満面の笑みで出迎えてたのは妹のだった。
「……」
―それは自分が汚れていることを実感する瞬間であり、
自分が自分に戻った安心を得られる瞬間でもあった。
変わったことといえば、ほんの少し前のことなのに、
気軽にその頭を撫でてやることができなくなったこと。
「……どうしたの?お兄ちゃん」
そこから動かない雷覇を不思議そうに見つめる一対の目。
どうしたのかと首を傾げるに、雷覇はただ苦笑した。
―は家族の誰よりも、自分の変化にいち早く、敏感に気付く。
「何でもありませんよ。ただいま」
―あちらへ墜ちてはいけない。
そう、この子のためにも踏み止どまらなければいけない。
の笑顔だけが、唯一、雷覇を雷覇でいさせてくれる楔でもあるのだ。
笑う雷覇を見て安心したのか、は当たり前のようにその手をとって歩き出した。
一瞬、雷覇はその手を振り払いそうになった。
けれど、その行為がを傷つけてしまうことをわかっていたから、されるがままにした。
―どこかに罪悪感があった。
でも、その小さな手はとても温かくて、自分から手を放すことなど出来なかった。
「―おかえりなさい、兄さん」
はにかんだ笑顔で出迎えてくれたのは、やはりだった。
―あれから何年もの月日が経ったけれど、が出迎えてくれる言葉は変わらない。
その笑顔も変わらない。
色々なことがあったけれど、そのことが雷覇には何よりも嬉しかった。
―どうかそのままの君でいて……
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